私はずっと選んできたと思っていたけど、
選ばれる立場でありたいと潜在的に思っていたことに気づいた。
私はこうなりたい!というのは確かにあるのに
間違いたくなかった
「正解」は他人が知ってると思ってた
自分の選択で間違えたく無いと思ってた
周りが正解ということをすれば正しいと思ってた
↑ヤバすぎるwwww無自覚の自信の無さ!!!!!
自分で選んで間違えたらあかんからって
自分よりも詳しい人に全部聞いてたな
ただそうすると、
正解の軸さえも明け渡すこととなる。
普通みんなどうするんだろう?
とよく考えていた。
自分が普通では無いと自覚しているからこその、
「普通この場合、どうすればいいの?」
「私おかしいから誰か普通を教えて」
をやっていた。
「私すっごいこれ腹立つんだけど
これって普通?
これに怒ったらヤバイ?」
て、自分の感情の扱いまでも
他人に聞いてた。
自分の感情のままに暴走したく無いから。
感情的な人と思われたく無い
全てを受け入れる
器の広い人でありたい
水のように形を変える柔軟なイメージが
自分にはあって
審美眼的なところでは私は
すごく激しい意志を持ってるんだけど
他のところでは、
さてどうだろう?
わたしは自分を全く信じずに
自分の感情よりも他のものを大切に
してきたのかもしれない。
で、考えてみた。
私が何も参考にせず
誰の判断も仰がず
自分の感情のままに
自分の感覚のままに
そのまま全て自分だけを基準に
自由に動いてみたらどうなるだろう
それこそ、めちゃくちゃ
スピードが上がるだろう
決断の。
私は優柔不断なんだけど
それは、
「私はこっちがいいけど
普通どうなの??一般的に、どれを選んだら失敗ない???」
という思考が挟まるからだと思う。
もしそれを今後一才しなくていいとしたら
わたしは自分が傲慢になることを恐れている
全ての事象に対して
いつでも素直でありたい
と思っているから
自分の感情の暴走で傲慢になりたくない
つまりね
自分の感情は傲慢だと
思ってしまっているということだ、、、!
自分の感情、感覚
たとえそれが傲慢で例えばそれが
間違っていたとしてね
それが何が悪いんだろうか?
わたしの感覚に従ったまで。
それで、仮にうまくいかなかったとしても
間違ったとしても
その先、自分でいくらでも軌道修正ができるのに
わたしは最初からやったこともないことの
正解を探して
一般論が正しい
と思い込んでた
ある部分ではわたしは
一般論を全て薙ぎ倒すほどの自分の軸があるけれど
それ以外の部分では
自分を全て明け渡す
という行動?戦略?
をとっていたんだな
やばいな🥹🥹🥹w
ビジネスにも仕事にも人間関係、恋愛にも
全てわたしが知らない答えがあると思ってたけど、
違う
私が第3の答えを作ることだってできるんだ
「私は、どうしたいか」
このシンプルな質問だけでいいんだ
先日ASTで、掃除機を買うのに一年かかった話をしたけどそれも全て「よくわからんスペック、数字に対して全部分かってみんなが良いというものを買いたい」と思ってたからだった
私が思うのは、
自分で選択するというのは
「損することを許可する」
との取引だな
逆にこれが許可できないと
自分で選択なんてできない。
大きな夢のために
他の色々なものの損を許可してきたけど
日頃の小さな選択のために
損を許可するところまでは到達していなかった、、!
日頃の小さな選択にこそ
損を許可していかなきゃいけなかったんだ
私は毎日を安全地帯で悠々自適に暮らしながら
大きなリスクだけは取っている
というアンバランスな選択をしていた
日々、少しずつリスクを抱えながら
自分で自分の道を選択する。
損しても心が傷ついても、
全て正解。
選択したこと自体が
正解不正解なんじゃなくて、
たとえそこで間違ったとしても
その先で何度も選択の練習をしていくことで
精度が上がっていく。
うわあああああ🤯🤯🤯🤯🤯🤯🤯
なんと莫大な気づき、、、!!!!!!